text=千葉敬介(東京R不動産)
中央線カルチャーを象徴する大ターミナル、中野駅。
そのホームから、築66年を迎えるこんな古い団地が見えていることをご存知でしょうか?
間もなくその長い歴史に幕を下ろすこの団地。そこにはこれから目指すべき暮らしのヒントが残されているのでは。
そんな期待を胸に、団地を訪ねました。


大きな中野駅の目の前に、今もこんな団地が残っています。
巨大ターミナル、中野駅のすぐそばに残る団地

中央線カルチャーを象徴する駅であり、都内でも有数の利用者数を誇る中野駅。
巨大なその駅から細い道を挟んですぐのところに、貫禄のある姿で静かに立つ団地があります。
それが東京都住宅供給公社(以下JKK東京)の「中野住宅」です。
JKK東京が持つ現役の団地では最も古く、66年前の1951年、まだ戦後の混乱が残る時代に建てられました。

そしてこの中野住宅は、間もなくその役目を終え、建て替えられようとしています。
そこで今回はその最後の姿をお伝えするとともに、激動の時代を見守ってきたこの団地の歴史を振り返ってみたいと思います。

きっとそこには、これから目指すべき暮らしのヒントが隠されているのでは。
そんな期待を胸に、団地を訪ねました。


激動の時代と、移り変わる中野の街を、静かに見守ってきた団地
戦後の混乱の中で建てられた中野住宅

中野住宅ができたのは、敗戦からわずか6年後。
このサイトでもここまで古い団地は、なかなか紹介することがありません。
教科書ではなんとなくは見たことがあるけれど、実際に当時この場所はどんな様子だったのでしょうか?
まずはそんなところから調べてみます。


中野住宅が建った年の、中野駅南口の写真。写っていませんが右奥に中野住宅があります(写真提供:中野区)

上の写真は団地が建てられたのと同じ年、1951年11月の中野駅南口の様子です。
駅前に位置する中野住宅は、右奥に見える勾配屋根の建物のさらに右側に立っていると思われます。

駅前ロータリーの完成を記念して撮影されたこの一枚。
とても整然としていますが、実はここには少し前まで闇市の露店が広がり、無数の人でごった返していたようです。
しかしGHQが出した「露店整理令」により闇市が強制的に撤収され、このような姿になったのです。


中野駅周辺に点在した闇市。不足する食材などを求めて遠方からも多くの人が集まったそうです(写真提供:中野区)

空襲で大きな被害を受け、半分が焼けた中野区でしたが、終戦後には疎開先や戦地から戻った人であふれ返ります。
終戦の時点で10万人を切っていた人口は、10年で一気に3倍近くにまで急増するのです。

食料も、建材となる物資も、完全に不足していた世の中。
そんな様子が、中野住宅ができる1951年に出た中野区史の別冊『中野区の新らしい歩み』に記されています。
「建築費高騰のため民間の貸家建築絶無の現状にあっては、住宅難にあえぐ人々は依然として萬一を期待して、都営住宅の抽選を申込むほかはないのである。」

しかし肝心の都営住宅も、用地の確保に困難を極め、抽選は100倍を超えることもあったという激しい競争率。
親戚の家などに身を寄せ、わずか3帖に家族5人で暮らすなど、悲惨な状態で人々が暮らしていたという記録が残っています。

そんな中、闇市を一掃して整備された駅前広場と、その隣に建てられた中野住宅が木造の町並みから頭一つ抜き出る姿は、戦後復興のシンボル的な存在に映ったのではないかと想像されます。


たくさんの家族を迎え、見送ってきた、中野住宅。建て替えを前に、今は住む人もまばらです。
中野住宅での暮らし

では団地での暮らしはどんなものだったのか。
それを教えてもらおうと、自治会の土肥幸子会長と、大西順子さんにお話を伺いました。

なんと土肥さんは新築当時からこの団地に住んでいるのだとか。
大西さんも初期の頃から住んでいて、当時はまだ子どもだったそうです。
そして驚くことに、最初からこの団地に住んでいる方は、まだ何人もいるのだといいます。
「あの頃は高校生だった○○さんも、もう80歳を越えたわね」と笑う土肥さん。

他にも昔住んでいた人のこと、今この団地で暮らしている人のこと、たくさんお話を聞かせていただきました。


自治会の会長 土肥幸子さん(右)と、大西順子さん(左)にお話を伺いました。

お二人の話を聞くと、住宅難と劣悪な生活環境にあえぐ東京で、当時この団地が高嶺の花だった様子が見えてきます。

団地には最初から水洗トイレが導入されていましたが、中野区の水洗化率は当時わずか2.9%。
店にはトイレットペーパーがないため、管理事務所で販売していたというから、最先端の建物だったことが分かります。

とはいえ、まだ家電もほとんどなかった時代。
家にあったのはトースターとミキサーぐらいで、洗濯は手洗い、氷で冷やす冷蔵庫に、風呂なしという暮らしでした。


新築当時はなかった浴室。後からベランダに増築されました。
ふるさとのような場所

激動と混乱の時代にできたこの中野住宅。
しかし日本はその後も朝鮮特需を経て高度経済成長へ、時代のうねりの中を突き進みます。

それとともに団地の周辺環境も大きく変化していくのです。
実は戦前まで多くの部分が農地だった中野区。それが戦後の人口増加で、あっという間に宅地と商業地へ。
建設当時の航空写真で見ると、駅より遠い側の近隣は、木々の茂る庭に建物が立つ住宅街だったようです。
それがいつしか庭のない高密度な住宅街へと変わり、1970年代に入ると背の高いマンションが建ちはじめます。
同時に木造の商店が並んでいた駅前も、大きなビルが並ぶ賑やかな繁華街へと様変わりしていきます。

そんな中で中野住宅に自治会が立ち上がったのは、1970年代に入ってのこと。
周辺環境の変化により、近隣との折衝が必要になったため、建設から20年ほどして設立されたそうです。

以来、餅つきや花見などの年中行事から、自主的な管理活動の運営、最近では毎月の食事会やお茶会に、ご近所の安否確認まで、団地内の絆として機能してきたそうです。

「この団地の子どもは優秀な子が多くてね」と、今でも集会所に飾られているトロフィーの数々を指して、ちょっと誇らしげに語るお二人の様子がとても印象的でした。

そして高齢者が多くなった今でも、外に引っ越した人がこの団地に遊びに来ることがあるのだとか。
ターミナル駅の目の前にありながら、みんなにとって、ふるさとのような、大きな家族のような存在。
それが中野住宅なのかもしれません。


大きく移り変わる社会の中で、こんな環境を守ってきた団地。周辺には高い建物も増えました。

さて戦後復興と高度経済成長により、都市部を襲った深刻な住宅不足も、1970年代中頃には収束を迎えます。
しかしその後も東京では都心部を中心に、住宅の高密度化・高層化が進行中。
中野から見える風景にも、超高層ビルだけでなく、タワーマンションが目立つようになりました。
そして都心部でのこの流れは、おそらく今後もしばらく続くのだろうと思われます。

一方で日本の人口はすでにピークを越え、減少が続いています。
まだ増加の続く東京でも、2020年をピークに減少に転じるという予測。

歴史を振り返ると、日本の家がコミュニティに対して開いていないのは、1970年代以降の数十年だけともいえます。
我々は高層化・高密度化する技術は手に入れましたが、その中でコミュニティを育む方法には、まだ出会えていないように思えるのです。

そして迎える人口減少社会。
日本の人口がこの中野住宅のできた頃と同じになるのは、そう遠い未来のことではありません。
そのときに豊かな暮らしの像を描けるかどうか。そのためのヒントを、この団地は示してくれている気がします。

建て替えは2019年の完成を目指して進められます。
そのときここにどんなコミュニティが生まれるのか、期待しつつ中野駅南口を見ていきたいと思います。

※現在、中野住宅の募集は行っていません