歩行者のための道と、車が通行する道を分ける配置計画の手法です。
例えば、団地の場合、外周に車が通れる道を設けて、団地の中には歩行者専用道路を作ったり、団地の真ん中に車と歩行者が通れる道を作って、そこから各住棟までは歩行者専用の通路にしたり、あるいは車が通れる道と歩行者専用道路を直行させたりと、具体的な配置の方法は様々です。
団地やニュータウンでは、この歩車分離が徹底されているところが多く見られます。
これによって、子供やお年寄りにも安全な歩行空間が確保されたり、歩行者専用道路が遊び場になったり、住棟間が緑豊かになったりと、団地ならではの風景が作られる要因にもなっています。
また、歩車分離を図りながら、緊急車両が入る経路を確保したり、駐車場や車寄せなどを作るのが、配置計画上のポイントになります。
階段室型の住棟の一種。
通常の階段室型の場合、住棟の中に何本か階段が作られるのに対して、階段室分離型の場合には建物の短い辺の壁(主な開口方向ではない側)に階段が作られて、ここから各住戸に入ります。
つまり、各階には住戸が2つだけ。
そして、複数の住棟が階段室でつながれるので、住棟と住棟の間に階段があるような形になります。
こうすることで、プライバシーがより確保しやすくなると同時に、階段室の踊り場が全て外気に面しているため、階段室が閉塞的にならないという利点もあります。
上から見た平面形状が、Y字型をした住棟。
ポイントハウスの一種で星形住棟とも呼ばれます。
集合住宅でありながら、全ての住戸が3面外気に面しているのが特徴です。
主に昭和30年代の団地で建設され、単調になりがちな団地の景観の中でアクセントになるように配置されることが多かったようです。
可愛らしく、特徴的な外観から、ファンも多く、文字通り団地の中の人気者です。
後に、同じようにY字型の平面形状を持つ住棟で、高層で大型化したもの登場しますが、これも高層スターハウスなどと呼ばれるようです。
住棟を文字通り平行に配置するという手法。
全ての住戸への日当たりを均一にするのが一番の目的ですが、車の通る道路を住棟と直交方向にすることで、住棟間を歩行者空間や庭などにできるという意味でも、優れていると考えられました。
また、考え方の根底には、公的な住宅は住む人の特定ができないので、均質な空間にするべきだという思想があったようです。
ただ、出来上がる空間が無機質な印象になることもあり、昭和40年頃からは平行配置を脱却することが模索され始めたようです。
緑地などを囲むように住棟を配置して、空間を分節化することで、庭のような空間を作る配置の手法。
空間に変化をつけたり、庭のように豊かな空間を作ることを目的にすると同時に、囲まれた空間によってコミュニティの単位を明確にして、コミュニティを育みやすくするという目的もありました。
直線的な配置や、直角による配置は緊張感があるため、それを避けることも同時に考えられることが多かったようです。
「団地設計とは環境をつくることである」
まさに、ボクらが今、なぜ団地を愛してやまないのかを、ひとことで表わした言葉です。
昭和30年代団地の設計思想の根底を支えていたこの言葉に、当時の団地づくりにかける熱い思いを見ることができます。
この思想のもと、それぞれの設計者が、団地という当時先駆的だった空間づくりに挑んでいったわけですが、その中で30年代の団地設計には、その考え方の違いによって7つの「流派」が生まれたとされています。
それぞれの流派の代表的な団地と概略は、こんな感じです。
・生活派 (草加松原団地、明神台団地、武里団地)
居住者の生活パターンを想定して、その解析を通じて設計のテーマを見つけよう、という流派。
・風土派 (多摩平団地、前原団地、高根台団地)
敷地が持つ風土や地形からデザインのテーマを見つけようとした流派。
・物理機能派 (霞ヶ丘団地、上野台団地)
日照条件、経済条件、施設量などの物理的要因に重点をおいた流派。日照派とも呼ばれる。現実的。
・幾何学派 (赤羽台団地、東久留米団地、豊四季団地)
造形的な設計方法を重視する流派。住棟を要素として捉えて、それを幾何学的に配置する、という感じ。
・自然派 (ひばりヶ丘団地、久米川団地、香里団地)
風土派と物理機能派の中間を目指した流派。自然に逆らわず、機能も犠牲にしない、秀才タイプ。
・未来派 (実例なし)
幾何学派と生活派の中間を目指した流派。科学的な分析と、幾何学的な造形によって造られる未来。
・しあわせ派 (千草台団地、花見川団地)
なんと、上の6つ全部の中間を目指してしまった流派。個性や造形性よりも、調和とバランスを何よりも重んじる優等生。
みなさんは、どの流派の団地がお好きでしょうか?
名前的には、「未来派」、「しあわせ派」あたりが目を引きますね。
文字通り、住戸の居室部分に当たる日照を4時間以上にしよう、という設計の指標。
ただし、4時間というのは冬至の日に当たる日照が基準になってます。
初期の公営住宅や公団住宅の設計要領で、この4時間日照が定められたこともあって、その後、住宅設計の一般的な基準として定着しました。
特に団地では、この4時間日照が確保できる住棟の配置であれば、必然的にプライバシーや、開放性、通風なども確保できるとして、住宅の性能確保の代表的な指標とされたそうです。
食事をするダイニングと、料理をするキッチンが1部屋になったタイプの部屋。
実は、このダイニングキッチンは、1951年に作られた51C型という公営住宅の標準プラン(間取り)において初めて登場する部屋の造りです。
それまでは、畳の和室にちゃぶ台というスタイルで食事をし、ちゃぶ台を畳めば寝る場所にもなるという生活様式だったのに対して、食べる場所と寝る場所を分離すること(食寝分離)を目指したこの間取りは、当時モダンな生活の象徴でもあったそうです。
ちなみに、このダイニングキッチンという言葉は和製英語らしいので、頑張って良い発音の英語で言っても、外国の人には伝わらないかもしれないですね。ご注意を。
正式名称は「端島」。
言わずと知れた、伝説の島ですね。
なぜ団地R不動産で軍艦島か?
実は、この軍艦島に建てられた「30号棟」という建物が、日本初の鉄筋コンクリート造の集合住宅だと言われています。
長崎の遥か沖合いにあるこの島は、海底炭鉱の採掘のために開発され、住居から学校や病院、果ては寺院から娯楽施設まで、都市機能が集約された人工の島でした。
そして軍艦島には、「30号棟」が建てられた1916年以降も、集合住宅が次々と建てられることになります。
そういう意味で軍艦島は、団地的な島でもあったと言えるかもしれません。
関東大震災からの復興のため、被害の大きかった東京と横浜の16箇所で建てられた集合住宅。
当時の内務省が作った財団法人同潤会によって建設されました。
震災前の東京は下町を中心に、木造の建物が密集していて、このことが被害を大きくする原因でもあったため、不燃の建物である鉄筋コンクリート造の集合住宅を供給することが目指されました。
日本の鉄筋コンクリート造の集合住宅としては、初期にあたり、当時としては最先端の設備などが導入されたそうです。
また、その独特な雰囲気とレトロな味わいで、近年でも人気が高く、取り壊しの時には、保存運動が起こった建物も多くありました。